Tiger Mask vs. Great Kabuki (1986/07/31) 02. Jimmy Snuka & Tito Santana vs. Masa Fuchi & Kenta Kobashi (1990/04/13) Running Time: 60 minutes – Source: SAT TV, ALL JAPAN – 1998/12/05 – CHOGEI SELECTION # 105 [Samurai TV] Hulk Hogan vs. Stan Hansen (1990/04/13) Running Time: 60 minutes – Source: SAT TV, ALL JAPAN – 1999/11/13 – CHOGEI SELECTION # 154 [Samurai TV] Jumbo Tsuruta & King Haku vs. Curt Hennig & Rick Martel (1990/04/13) Steve Williams & Terry Gordy vs. Tiger Mask & Shinichi Nakano (1990/03/31) 01. 4. Great Kabuki vs. Rip Rogers (1990/01/20) Shoehi Baba vs Stan Hansen (PWF title, 4/2/1982) Billy Robinson & Brad Rheingans vs. Steve Regal & Kevin Kelly (1984/03/04 – Chicago, IL) Running Time: 60 minutes – Source: SAT TV, ALL JAPAN – 2001/03/17 – CHOGEI SELECTION # 224 [Samurai TV] Title: Joe Malenko vs. Masa Fuchi (1989/07/28) !PRO-WRESTLING」をZEPP TOKYOで開催。普段は見られない覆面レスラーが多数登場した。好評につき2003年と2004年にはツアーとして開催。2008年12月23日に約4年ぶりに開催。また、ファン感謝デーや毎年6月10日に開催される「武藤祭」は非常に好評で、プロレスラーとお笑い芸人がタッグを組んで争われるF-1タッグ王座など、ファンに楽しんでもらえることを中心に構成されていた。さらに、武藤が司会を務めていた番組「武藤敬司☆SHOW」がきっかけで、対談した船木誠勝らが興行に関わったり、同じく対談した夏目ナナのプロデュース興行や[5]、吉沢明歩らが参加したセクシー女優とのコラボ興行を開催した。, 2002年11月17日、石井和義が率いる株式会社ケイ・ワンと協賛で、プロレス版Dynamite!として「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を横浜アリーナで開催。第2弾は2003年1月19日に東京ドームで開催。武藤は「WRESTLE-1」の世界を「ファンタジーファイト」と表現した。この興行をフジテレビがプライムタイムで放送したが、サブタイトルは「ボブ・サップのプロレスエンターテインメントショー」と銘打たれ、プロレス中継というよりは当時人気だったボブ・サップを中心とした番組として放送された。, また、江崎グリコプロダクトマネージャーで全日本のコンディショニングコーチを務めていた桑原弘樹とゴールドジムの協力による、プロレスラー流のトレーニング方法やサプリメントなどの栄養学を参加者に公開する武藤塾を毎年開催しており、番外編として年に1度、新人オーディションを開催していた。, かつて全日本の主要大会と言えば日本武道館大会だったが、2004年2月22日を最後に撤退した。代わりに代々木第二体育館に加え、年1〜2回行われた両国国技館での興行「プロレスLOVE in 両国」では、プロレス界で初の試みとなる複数の企業から出資金を募り、1つのイベントを作り上げる製作委員会方式で開催。, 2004年4月、テレビ東京で約4年ぶりとなるテレビ中継番組「プロレスLOVE 〜夜のシャイニング・インパクト〜」が開始された。2005年3月以降は、両国大会のみ放映。, 2007年4月6日、「全日本プロレス マザー」がGAORAからの映像提供による放送で千葉テレビで開始。その後、岐阜・京都・神奈川でも放送された。また、地上波以外での全国規模の中継ではGAORAが毎週1回、土曜日更新(生中継や再放映有り)で録画中継している他、FIGHTING TV サムライでも随時中継している。GAORAの中継においてはFIGHTING TV サムライの協力を取り付けている。, 2011年5月29日、スーパーヘイトが試合後に嘔吐・昏倒したため病院に搬送され「急性硬膜下血腫」の診断を受け緊急手術が行われた。5月31日、VOODOO-MURDERSのリーダーのTARUが、試合当日にビジネス上での口論からヘイトを数発殴打した事を自ら会社に申告。6月1日、TARUの無期限出場自粛を発表すると共に、TARUがスーパーヘイトを殴打したとき控え室に居た河野真幸、稔、MAZADAの無期限出場停止処分とVOODOO-MURDERSの解散が発表された[注 4]。, 6月7日、一連の事件の責任を取り武藤が社長を辞任し(選手兼取締役としては留任)、取締役の内田雅之が第7代社長に就任。, 6月19日、レフェリーの和田京平が退団した。武藤が早急に謝罪会見を開かなかった事を批判したところ「会社への裏切り」と見なされ武藤から退団するよう求められたという。, 2012年11月1日、スピードパートナーズ(のちに、八丁堀投資へ社名変更)の社長を務めていた白石伸生が、全日本の株式を100%取得しオーナーになる。旧来の全日本プロ・レスリング株式会社を過去のコンテンツ版権管理などのわずかな役割を残した上で、資本金1億円で全日本プロレスリングシステムズを設立し事業内容を引き継ぎ、新しい運営会社としてスタートを切った[6]。, 白石はFacebookで過激な発言を繰り返し、槍玉として上げられた新日本プロレスなど外部の人間が抗議するなど反感を呼んだ。結果として全日本の分裂騒動に発展することとなり、新日本との関係が悪化する要因となった。2013年6月1日に新役員体制が発表され、社長を務めていた内田雅之が退任し白石が新社長に就任した[7]。一方、武藤敬司は取締役会長を辞任するとともに全日本を退団した[8]。, その後、武藤側は白石との間で全日本プロレスの株式の買い戻し等の交渉を進めていたが、交渉が不調に終わったことから退団者と新団体の旗揚げを示唆。全日本の選手とスタッフを中心に退団を呼びかけ、船木誠勝、河野真幸、KAI、真田聖也、中之上靖文、浜亮太、田中稔、カズ・ハヤシ、近藤修司、大和ヒロシ、アンディ・ウー、練習生全員、そして一部のスタッフが退団を表明[9]。一方で大森隆男、諏訪魔、ジョー・ドーリング、征矢学、SUSHIが全日本への残留を明言したほか、太陽ケア、レフェリーの和田京平が限定的ではあるが全日本へ復帰する方針を明らかにした[10]。, 2013年7月5日、新体制を発表し2月から全日本に参戦していた秋山準、潮崎豪、金丸義信、鈴木鼓太郎、青木篤志のバーニング5名が所属選手(秋山と金丸は13年ぶりに全日本復帰)となり、レフェリーの和田京平が名誉レフェリーという形で復帰した。白石伸生代表の下、13名(選手10名、スタッフ3名)で再出発することとなった。一方、武藤らは7月10日に新団体WRESTLE-1を旗揚げした。7月14日には、態度を保留していた渕正信が取締役相談役に就任する形で残留[11]。従前に比べ手薄となった選手層の補強は以後も積極的に行われ、9月1日付で曙が入団し、10月には練習生4名が入寮[12]。, 8月1日、スピードパートナーズ社内で全日株を保有することに反発した幹部たちに対し、白石オーナーは自身のスピードパートナーズ社の全株式を売却すると決定。同日、辞任の上スピードパートナーズ社は株式会社八丁堀投資に社名変更。同社の傘下企業だった全日本プロレスリングシステムズや、エステ・アパレルなど計5部門を自身の資産管理会社の株式会社レッドウォールジャパンに移し、全日本プロレスリングシステムズの新しい親会社となった[13]。9月11日付けで井上博太が代表に昇格し、白石前代表はオーナーとして後方支援を続けた[14]。また、2013年に全日本プロレスリングシステムズ株式会社によって出願された「全日本プロレス」の商標は、白石オーナーの株式会社アールワンが継承していた[15]が、2018年12月にオールジャパン・プロレスリング株式会社が譲渡を受けて保有している。, 2014年6月4日、秋山が7月1日付で自らが社長となる新法人を設立した上で、全日本の運営を全日本プロレスリングシステムズから引き継ぐ方針であることが明らかになった[16]。所属全選手が秋山に追従する方針である他、馬場元子も秋山を支援する意向を明らかにしている。背景には、2014年に入ってから所属選手へのギャラの支払いが滞り始めていたことがあるという[17]。一方、旧法人オーナーの白石は自らのブログで、資金面の問題について「選手、フロントに甘えがあったので、支援金額を1月から固定化した」「団体経営を理解させるための治療薬」と述べた上で[18]、新会社設立について「様々なスポンサーが設立時に出資しやすくするため」と語り、今後は数あるスポンサーの中の一社として団体を支援していく考えを明らかにしている[19]。, 7月1日、全日本プロレス・イノベーション株式会社と同社の完全子会社となるオールジャパン・プロレスリング株式会社が発足し、興行の運営会社とする形で秋山新体制をスタートさせた。全日本プロレス・イノベーションの事務所は山形県山形市のケーブルテレビ山形の社内に置かれ、通信放送やグッズ・ファンクラブ・ゲームキャラクターなどの企画・運営を行うコンテンツ会社としての役割を受け持ち、同社が10%の出資を行い、同社の吉村和文社長が会長に就任。オールジャパン・プロレスリングの事務所は7月7日に、もともと合宿所として使用していた横浜市青葉区の施設に移転するほか[20]、諏訪魔が取締役、馬場元子が取締役相談役に就任することが発表された[21]。, 2015年秋に入り、潮崎豪、曙、鈴木鼓太郎、金丸義信が相次いで退団を発表[22][23]。興行数が減少していることもあり、選手への給料を従前の固定給から試合の出場給に改める代わり、所属選手の契約形態を専属契約から「所属だが他団体への出場も自由」(いわゆる「専属フリー」)の形に変更する方針も明らかにされた[22]。また12月から、全日本プロレス・イノベーションとオールジャパン・プロレスリング両社間の関係が分離され、興行権がオールジャパンに完全移行された[24]。社長の秋山を除いた経営陣は11月末で退任し[25]、今後はオールジャパン・プロレスリングが中心となり経営を行っていくことになった。ただし、全日本プロレス・イノベーションはオールジャパン・プロレスリングの株式の34%を保有し続けており、関係は継続されている[24]。, 2016年9月30日、BS11にて「全日本プロレスイレブン」の放送開始を発表。毎月第3月曜日の23:00から23:30で、10月17日からスタートした。その後2回の放送日時変更を経て、2018年9月19日の放送をもって終了となった(全24回)[26]。, 2018年3月19日、インターネット動画配信サイト「全日本プロレスTV」サービス開始。主要カードの動画が見られるほか、大規模な大会では生配信も行う。, 秋山体制の5年間で、宮原健斗をはじめとする若手が台頭してきたことから、秋山が現場に専念するため、2019年7月8日付けで社長職を退任。後任に、オーナーとして携わってきた福田剛紀が新社長に就任した。当初、秋山に取締役会長を打診されたが、秋山自身の「現場でやりたい」という要望を受け、団体初のゼネラルマネージャーに就任することとなった。また、社外取締役に2AW取締役会長の十枝利樹が就任。一方で、2016年より取締役となっていた大森隆男が、選手活動に専念するため取締役を退任した[27][28]。, 2020年1月16日のプロレス大賞授賞式を最後に、秋山は取締役およびゼネラルマネージャーを退任[29]。5月9日、DDTプロレスリングのゲストコーチ就任を発表し[30]、6月27日、7月1日付でDDTへレンタル移籍することを発表[31]。前年にすべての役職を解任されたほか、年末に福田社長から若手の指導をTAJIRIに任せると告げられたことを秋山自身が語っている[32]。, 選手会長の諏訪魔は、いち早く「脱・秋山」を掲げた[33]。福田社長と直接会談に臨み今後の方向性を確認した[34]。, 将来有望な若手選手に、一流選手との対戦で更なる実力を発揮してもらうという育成の狙いから、トップクラスの選手を相手にした「番勝負」が実施されることがある。, 1976年から1979年まで3年がかりで行われた「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」に始まり、2代目タイガーマスク(三沢光晴)が1986年から1988年にかけて行った「猛虎七番勝負」等を開催。ほかにも小橋健太、秋山準らも、この番勝負を経験してスターダムを駆け上がった。また、後に三沢が立ち上げたノアでも開催された。, 武藤敬司が社長に就いてからも、本間朋晃や諏訪間幸平が挑戦している。宮本和志は本間をパートナーにタッグマッチで挑戦。天龍源一郎は2003年に若手選手を鍛える目的のシングル七番勝負を行った。, 2019年、大森北斗がデビュー一周年を記念し、地元の北海道で「大森北斗 北海道試練の三番勝負」を実施。若手の番勝負としては約15年ぶりの開催となった。, 2020年、愛媛プロレス所属のライジングHAYATOが「ライジングHAYATO試練の3番勝負」を実施。他団体の若手に対しての実施は初[注 5]。, 有望な若手選手が複数人所属する時期に、不定期で開催されるシングルリーグ戦。過去5回開催された。, なお基本的に優勝しても特典はない(第2回大会のみ優勝者にチャンピオン・カーニバルへの出場権が与えられた)が、若手にとってはあすなろ杯優勝が初の栄誉となることが多い。, 2016年に開催していた若手主体興行。大日本プロレス主催の若手主体興行「D-RIZE」と隔月で交互に開催(奇数月が大日本主催、偶数月が全日本主催)[37]。12月20日の「AJ PHOENIX vol.6」をもって一区切りとすることになった[38]。試合会場は常時新木場1stRINGで行われた。, ジャイアント馬場体制から定着していたシリーズ名が、武藤敬司体制より一部変更されている。正月と10月に開催する旗揚げ記念大会「ジャイアント・シリーズ」は馬場のリングネームである「ジャイアント馬場」に、「シャイニング・シリーズ」は武藤の必殺技である「シャイニング・ウィザード」に、それぞれなぞらえていた。また「ホールドアウト・ツアー」は、武藤の入場曲の曲名にちなむ。, 武藤の退団後は、武藤にちなむシリーズ名は改称された(馬場にちなむ「ジャイアント」にも戻さず、また当時社長の秋山にちなんだ名称にもしていない)。, 後の調査で河野真幸、稔、MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため、6月30日付けで出場停止処分は解除された。, 同年1 - 3月に全日本プロレスの道場に住み込みながら継続参戦しており、一時的に所属選手同然の扱いとなっていた。.